パターソン(私の文章を起こさせた正体)
今回見たのはパターソンという映画。
先に言っておく、私は詩に疎い。作中パターソン市から排出されたポエマーが登場するが私は誰も知らない。パターソンという映画における秘話も知らない。
そんな私が述べる感想は純粋な感情的散文になる。
パターソン。主人公の名でもあり、舞台となる地名でもある。主人公はバスの運転手で、大きなドラマが起きることのない日常を生きている。
しかし、パターソンがこの映画の主人公たる所以は、ひっそりと素敵な詩の世界に浸るポエマーであるという点にある。彼はバス運転手という仕事の最中、仕事の休憩時間、愛しの妻との生活の中、と彼は詩を作り続ける。
私の心が動かされたのは、この点に限る。
この映画は、創作という行為と創作している時の世界を美しく表現されている。
おそらく一度でも創作したことのある人は気づくであろう。紡ぎだされる言葉は頭の中を駆け巡り、眼前の世界は生み出された言葉によって次元を隔てられる。
この映画における演出はまさに創作される間の世界を見事な画にしていた。
私が逡巡していたのは、創作に熱中していた頃の自分。
あいにく詩を創っていたのではなく、私は小説を創っていた。安易に似ていると述べることは避けたいが、似ていないとも言えないであろう。
その頃の私はまさにこの映画のように世界を捉えていたようにも感じられた。世界を見ているけど、何重にも私自身のスコープが通されて世界が私の中に映し出される。
また、私の過ごした創作期間は有意義な一つの答えを教えてくれていた。
それはつまり、創作に必要なことは、突飛な出来事でもなく、白熱する非日常でもなく、漫然と進む日常の世界に居るということ。
パターソンはそんな大切なことを私に思い出させてくれた。
ありがとう。
アンサーとして、このブログを始めることを述べたいと思う。
今の私の世界は漫然とは進まないけれど、こういった気持ちを残していくことが大切であるように感じたため、不定期的に書いていきたいと思う。